第23回 丹沢ボッカ駅伝


 5月の半ばのことでした。 いろいろな事での心の師匠であるKさんからメールが入りました。
 「仲間のTさんから連絡があり、6月7日のボッカ駅伝に参加予定の一人が怪我で出られなくなり、参加してもらえないか聞いてもらえないか。」というのです。
 更に「勝ち負けは関係なしで、アフターを楽しんでいる人たちなので、軽い気持ちで走れるとは思います。いかがですか?」と続きます。
 Tさんは南足柄にも参加している人だという事ですので、ほぼどなたかは分かりました。 なおかつ、そういう人なら、私がどれだけ遅いのかをよく知っている人でしょうし、それでも呼びかけて下さったのでしょうから、つい「はい」と言ってしまったのです。
 4日後、追加のお知らせが来ました。
 「野辺山で監督に話したところOKが出ました。 ついては練習会が土曜日にありますので...集合は...」
 げげっ。 野辺山...練習会...これはやばい。 この人たちはガチな人たちではないのかな...。 私とは対岸にいる人たちだ...。
 なおかつ、40キロの部の2区をやって欲しいとあります。 大会のホームページを見ましたら、2区って1240メートルで290メートルも上がる区間ではないですか。
 暗い気持ちで練習会に参加しました。 みなさん凄い筋肉です。 このグループからは4チームが参加するそうで、40キロが1チーム、20キロの男子が2チーム、女子は10キロで1チームとの事でした。
 お話しをしてみますと、女子は優勝を狙っていて、男性陣も入賞する話をしています。 脂汗が出てきました。
 早速、1区担当の男性と女性が、それぞれ規定の砂利袋を背負って走り出しました。 残りの人たちは歩いて次の区まで上がることとなりました。 1区は大倉のバス停あたりからですので、ゆったりと登りが始まりましたが、2.7キロで標高差320メートルありますので、だんだんきつくなってきます。 ここまでで疲れてきました。
 2区に入りました。 1区の人は20キロの部ですので、ここで20キロの砂利袋を追加し、40キロの荷にします。 今度は私が背負って、肩紐と腰紐をがっちり締めました。 重い...苦しい...これは大変だ...。 心がすでに悲鳴を上げました。
 練習だから、苦しかったら止めにしますよといわれました。 締め付けられたせいか、重さになれなかったせいか、最初に急な登りがあり、そこで速く上りすぎたこともあって貧血を起こしてしまいました。 200メートルくらいで初日は荷を下ろしました。
 Tさんから「後悔してるでしょ」といわれましたが、その通りでした。
 あとは、とにかくゴールとなる花立まで登ることにしましたが、荷物なしでもすんなり登れません。 なんども休憩して、やっとの思いで登り、監督さんとお会いすることができました。 監督さんは、強くて優しいタイプの人で、参加することをとても喜んでくれました。 Tさんから報告が行ったようで、その後3区に変更する旨が通知されてきました。 それも、相手が気分を害さないように、すごく気遣った表現でした。
 正直、すこしほっとしました。 3区は距離も短くなり、なんと言っても高低差が50メートルなので、全然内容が異なります。 ああ、みなさんいい人たちなんだなあと感じつつも、責任の重さが痛く感じられました。
 それから、スポーツ用品のコーナーに行き、ストックを買いました。 会社から背負子と砂の入った土のう袋を借りました。 家から500メートルほど離れた歩道橋まで、毎日47キロ背負って練習開始です。 歩道橋の階段は39段あり、これを10本から20本登り、スロープを下って降り、また500メートル歩いて帰ります。 雨の日も傘を差して毎日やりました。 こんなにまじめに練習した事はいままでにありませんでした。
 とにかく、背負子のベルトが肩に食い込むのが一番苦しい事でして、いろいろ試してみました。 荷造りのスペーサーをベルトに巻いたりもしてみましたが、結局、段ボールを肩に当てるのが一番効果的でしたので、これを持って行くことにしました。 汗で幾分しんなりしましたが、これがかえって体になじみましたので、そのまま本番で使うことにしたのです。 風呂に入ると、肩にシャツのしわが刻み込まれていました。
 3日くらい前までは、大会がきて欲しくない気持ちがありましたが、最後は早く来て欲しいと思うようになりました。 さっさと通り過ぎて欲しくなっていたのです。
 いよいよ本番の日です。 7時集合なので、6時48分渋沢からの始発バスに乗ろうと思いましたら、すでに長蛇の列です。 乗り切れず15分後の次のバスで行きました。 満員です。 一般登山客も新松田からにすればよかったのかな、と戸惑っていました。
 みなさんが待機している場所に到着しました。 ここでチームの全員が一堂に会しました。 初めてお会いする人もいましたが、一様にみなさん爽やかで、礼儀正しく、ゴミの管理もきっちりしていて、模範的な人たちばかりです。 なので、緊張してきてしまいました。 人間としてのレベルも高い人たちです。
 いよいよ中継所まで移動です。 それだけでも、ついて行くのにせいいっぱいです。 第2中継所にたどり着きましたが、息が上がっていました。 受付を済まし、練習会でお会いした、やはり今回が初めての駅伝という人と話しました。 「練習会に参加してよかった」というのが主題でしたが、まさに実感です。 これがぶっつけ本番だったらタダでは済まなかったことでしょう。 ちなみに、中継所の連絡がうまく行かず、ロスタイムがあったので記録には表れていませんが、この人も結構速い人でした。
 レースが始まりました。 中継所を軽いクラスの速い組の人たちが駆け抜けてゆきます。 血の気が無くなって白くなりながら、倒れ込むように荷を渡した人もいました。
 さあ、2区と3区を代わってくれた監督さんがやってきました。 役員の人も感心していましたが、走り終えた前の区のランナーやサポートのために応援にきた人が、声をかけて励まして、団扇で扇いで伴走しています。 この大会は伴走が認められているのですが、お祭りの御輿のように、沢山の伴走者が声をかけています。 本当にチームワークの強い素晴らしいグループの人たちなんです。
 荷物を引き継ぎました。 47キロで練習していましたので、重くは感じられません。 練習していた通りに歩き出しました。 ゆるく登ってゆるく下って行くのですが、「つなぐ」事に専念しようと、オーバーペースにならないよう気をつけるつもりでしたが、やはりついペースが上がってしまって、最後の登りは十分練習の成果が出せませんでした。
 レースが終わりました。 優勝を狙っていた女子はおしくも2位。 そのほかのチームも入賞にはわずかに届きませんでした。 私の個人成績は16分17秒で91組中90位、クラス別では14チーム中最下位でした。 前年の40キロ3区の最後の記録が19分30秒でしたので、20分切れればいいと思っていまして、それはクリアできたのですが、今回はレベルが高く、13位の人で14分30秒でしたからダントツの最下位でした。
 本当にいい人たちと知り合いになりました。 「仲間」と呼びたいところですが、あえてここでは避けてきました。 私自身、みなさんの仲間になれない気持ちが一杯なのです。 今までの自分と、練習会での状況からして、2週間でよくここまで来たなあという気持ちもあるのですが、後悔と自責の念の方が強いのです。 もっと貢献したかった。 もっと頑張りたかった。 もっといい成績を残したかった。 もっと....
 記録からして、私が区間新記録を出したとしても、順番は同じでした。 でも、もっと頑張れなかったのか。 自分のではなく、この人たちの練習に応える事ができたのか。 もっと真剣に、もっと厳しく練習できなかったのか。 そういう想いがわき上がって来ているのです。
 心の師匠であるKさんは「自分のことでは頑張れないけど、人のためなら頑張ることが出来る」とアドバイスして下さいました。 その言葉が心に染み渡ります。
 『この素晴らしい人たちのために、もっともっと頑張りたかった!!!』

到着
曇ってます
チームの人たち
荷物を準備中
2区への中継所
荷物を預けたので、レース前後の写真はありません。
ここがスタートでした
戻ってきました
本部の裏側
閉会を待つ
優勝チームです
表彰式

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